グループサイトとして連携運営する複数サイトへの一斉投稿テスト。本場大島紬

先日、工事現場のメンバーと話していた。
相方から突然、農家の出身ですかと聞かれた。いろいろ事情は有るが咄嗟に、そうだ!と答えました。
話の中で幼い頃は色々と農作業の手伝いをしたことも有るし食事の面での話も。
相方にどの程度伝わったかは分かりませんが稲作も二期作だったし・
サツマイモの栽培も・たまに葉っぱ汁も
給食でなく手持ちの弁当にはイモ弁当の日も有った
芋弁当(サツマイモを混ぜた?)でしょう?
Oh! no! Only two satsumaimos in my bentoubako.
対象が変な英語風な表現なので和訳をと言われても自信は有りませぬ
恐らくは
蒸かした”さつま芋”を2つ程、弁当箱に入れただけの質素な粗食仕様の昼食弁当で御座いますと言いたいのでは?
ほぼ当たり! 93点では?
どんなに質素な粗食でも、一応食事にありつけたもの・・今の自分が有るのもソレで食いつないで来たせい
一時は1ダースを越える大家族が藁葺きやトタン屋根の下で暮らしていた
終戦直後、それも日本国とは区分けられた奄美群島
それに家庭の都合に自身の都合も重なり
・・・・
本場大島紬
日本が経済成長を続け、それなりに部分的には”ゆとり”も生まれ一方、海外からの勢いは未だ感じられぬご時世
一時は隆盛を極めた?
まだ古式ゆかしき着物文化の勢い在りし頃か
我々兄弟の上の年代は内地・本土や群島一の町へ進学してい行きました
一時期までは父親の仕事のほか、身内ながら老若男女問わず農作業に精をだしていた
それも父親が転勤、徳之島を離れ北の奄美大島へ
それもポンポン船しか交遊手段の無い自治体でした
益々、要する本土・奄美群島内の数ヵ所の仕送り先への対応で頭を痛めたことでしょう
我々兄弟だけで両手の指の本数に限りなく近い
更に一世代含めると大学生・高校生の複数ヵ所への仕送りで大変だったはず

他にも転勤先は有ったが・・ある所では
何時しか母親が本場大島紬を織り出す
赴任時に用意して頂いた小さな二間の借家で炊事場兼ねた3条半か4畳半での機織り
生家での周囲からの応援も全く期待無しでの数ヵ所への仕送り
更に下にも当方含め3名も
当時の80戸ほどの集落、1軒の小さな商店への買掛帳
今思うと自然と涙が・・
生家での生活なれば自家栽培の米・野菜など応援頼んで何とかなったろうに
多い兄弟の中で責任有る立場の父親の立場、生活の原資の農業を営めない中、副業として本場大島紬を織る事に
原材料の絹糸や織り上げた反物を隣の行政区の村の工場まで本当の山越えで
バスなどの交通手段は無き時代、材料の織糸を受け取り仕上がっ反物を納める
本当に数少ない収入源、当事は80戸ほどの集落住まい
生活の足しにと今は出来ない農作業に代わり機織りが可能だったか
かなりの高度な織り技能・技術が要求されることが要求されたのだろう
小学高学年から中学進学早々、すぐ隣でコットン・タットンと機織りの音が
生糸の糸巻き機を操ったり機織り機に材料の生糸を引っ張ったり
母親は何処で機織りを習ったんだろう?
生家での母の機織り姿は記憶に無い
繊細で根気の要る繊細で経験を求められる作業を何処で?
見たこと無かった
我々下の兄弟が生まれる前、上の兄弟が生まれた頃に機織りをしていたんだとうか
どの時代に機織りの技術を得たんだろう
母親が生まれ故郷を離れ、いつしか「島育ち」の歌謡曲ほかに合わせて離島ブームが巻き起こる
それも一時のはかなき夢だったか
特別な離島ブームは過ぎ去り、本場大島紬は廉価な韓国紬に圧倒されて行く

若い人は都会へ

何かイイ解決案は?